食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。
[2023-03-08] 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』を見た —『偶然のアフリカ』につづいて今日も楽しい人類学!
きょうは民博の特別展
『ラテンアメリカの民衆芸術』の内覧会に参加した。
身内だけのバーゲン会場みたいで、ちょっと
気がひける。
短い開会式のあと、
会場をめぐる。
どの作品も素晴しい。
いまアーサー・ダントウの現代芸術の哲学を読んでいるのだが、
ぜんぜんわくわくしない。
[–議論自身は興味深い–]
もともとぼくが現代芸術を嫌いだ、というのが
その(「つまらんと感じる」ことの)第一の理由かもしれない。
しかし・・・
現代芸術と(ふつうの)芸術を
それらが「同じようなものである」として
議論するのは、
ちょうど
客体化された文化と(ふつうの)文化を、
いっしょに議論しているみたいで、聞いていて居心地がわるい。
もっと端的に言えば、
間違っていると思う。
「芸術」という言葉の外延から
『泉』以降のいわゆる「現代芸術」は除外すべきだ。
(同時に「文化」という学術用語の外延から
〈客体化された文化〉を除外すべきであるように。)
「現代芸術」は鑑賞するためにあるのではなく、
それについて議論するためにあるのだと思う。
というわけで、
コンセプチュアル・アートのアイデアは
とてもいい —
作品もいらないから場所の節約になる。
ちょっぴり『パタリロ』の「バーチャル落語」を思い出す
(^^:)
サイエンスウォーズのきっかけとなった
ソーカル事件みたいな「いたずら」を誰かしないかな
;-P
もとに戻ろう。 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』の話をしていたのだ。 ここに並んでいる「民衆芸術」は (議論は二の次で)ともかく鑑賞するためにある。 どれもこれも素晴しい。 うっとりとしてしまう。 いくつか模写してみた。 [–感動のあまり『泉』を模写する人っているのかしらん–]
先日の『アフリカの冒険的現代』といい、 この頃とてもついている — 面白い人類学を満喫できた。