2023-07-18 『聖なるもの』(オットー)を読んでいる ---ぼくの思惑とは 対象がずれていた

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2023-07-18] 『聖なるもの』(オットー)を読んでいる —ぼくの思惑とは 対象がずれていた

『聖なるもの』 (オットー 2010)を読んでいる。 フェティッシュや芸術関連の議論で「属性」について かんがえる脈絡だ。 「聖なる」という属性が、 一種の原初的な属性なのではないかと考えたのだ(とくに理由はない)。 そういう意味では いささか落胆した — この本はキリスト教における 「聖なる」の意味をさぐる試みなのだ。 (「聖なる」という属性一般の話ではない) エンデのピレ (pirE) とか、 東ティモールの lulik などの属性と 比較したいのだが、 これでは比較がうまくできない。

また、この本で問題にしている 「キリスト教における聖なるもの」とは、 キリスト教が社会を覆い尽している時代の (あるいはそう思っている人の書いた)「聖なるもの」だ。 西洋に限定しても、キリスト教以前の時代とか、 宗教の衰退以降の時代とでは 「聖なる」もずいぶん意味が違うような気がする。 そのあたりも視野にいれて分析してくれれば、 ぼくにも役にたっただろう。 無条件でキリスト教を受け入れている人による、 キリスト教における「聖なる」属性の意味の分析は、 ぼくにとってはいささか狭過ぎる。

たとえば、 (オットーも書いているが) 「聖なる」の意味が「善なる」の意味と通底するのは、 エンデや東ティモールではあり得ないはなしである。 キリスト教限定の現象だろう(もしかしたらイスラム教も?)。

別の話題かもしれないが・・・ 社会がキリスト教に覆われた時代とは、 ポランニーの「経済に埋め込まれた社会」 (「頭山」状態)と同じような意味で、 「宗教に埋め込まれた社会」と言えるような状況なのかもしれない。 「宗教に埋め込まれた社会」を記述したらしい『聖なる天蓋』 (バーガー 2018)を 読み直してみようかしらん。