2023-11-27 12月の東南アジア学会で発表予定の原稿、「ベクの認識論」の構成を考えついた

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2023-11-27] 12月の東南アジア学会で発表予定の原稿、「ベクの認識論」の構成を考えついた

さっきの散歩のときに、 東南アジア学会(12-09)での発表 の構成を考えついた。 先日にも書いたように、 予告編を書いた時点での構成では、 とても30分で発表できないのだ。

タイトルは「ベクの認識論」。 ベク/レッダからオースティンの言語行為論(規約) (発語内の力から構成的規則へ — 発語媒介行為などは省略する) に至るまでは これまでの考え方と同じ。 例としてはまず野球をだす。 それから1円玉を「歩」にする宣言などを出す。

「しかし、どこか違うような気がする」とつづける。

違うのは野球や将棋が「遊び」にすぎないのに、 ベクやレッダが実生活にかかわっている、という点である。 たしかに(オースティンによる)法廷での有罪の宣言などは 実生活にかかわっている。 しかし、有罪の宣言は(ベクやレッダのように)実生活に埋め込まれている [–いいコトバがない–]ようには見えない。

→ 資本主義社会の「公私」の区別と ギアツの lek’ の舞台恐怖症 (stage fright) の議論と重ねる。

ファインバーグの「無効化可能性」(ディフィージビリティ)の 概念を使う。 (ほんとうは、必要ない・・・ような気がする) あとで公私の話をもってくるので、 その話と無効化可能性あわないかもしれない。 たとえばいつもの(『ちびまるこちゃん』経由の) 「卑怯」と「小心者」の例は、公私の話とあわない。

→ レナの牛、レッダ。「公」としてのレッダについての フィールドワークのエピソードはどう使えばいいのだろうか・・・。

「ゲームに取り込む」議論 (両さん、在日韓国人、ンガンベ)はどこにあてはめる。 → 【ここはつながっている】 魚売り。

「意図」の話題がでてこないなぁ・・・。