食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。
[2025-03-13] 科学と疑似科学の間、デモクラシーとポピュリズムの間に境界線をひくことができるのか? —「できない」という議論をつくってみよう
この頃「ポピュリズム」と「陰謀論」が気になっている。 思いつくことを書きとめておこう。
わたしの辞書で “populism” を引いてみた。 訳は1つだけ「人民主義」(ナロードニキの思想)である。 これにはびっくりした — 直観的に「良き政治思想」と考えられる思想もまた、 「ポピュリズム」のラベルのもとに分類されるのだということにびっくりしたのだ。 「ポピュリズム」というコトバは最近作られたコトバで、 悪しき思想へのラベルだとばかり思っていたのだ。
というわけで、 『ポピュリズムとは何か — 民主主義の敵か、改革の希望か』 (水島 2016) をぱらぱらと読んでいる。 民主主義とポピュリズムをどうやって区別するのか、が 大問題であることがわかった — そうか、 線引き問題 (demarcation problem) だ。
この言葉、「線引き問題」を使ったのは、 〈民主主義対ポピュリズム〉の対立を 〈科学対疑似科学〉の対立に重ねたかったからだ。 科学対疑似科学の線引きの難しさは、 伊勢田(2003)が『疑似科学と科学哲学』で議論している 通りだ。
この本を読んだのはずい分前なので記憶が曖昧だが・・・
はっきりと疑似科学と(直観的に)わかるもの (たとえば UFO 論)を 「非科学的」だと論証する (or vice versa) のは とても難しいのである。 伊勢田は「科学と判断するための」 いろいろな操作的な基準を出してくるのだが、 (たとえば学術雑誌があるか、などなど) UFO 論はこれらの基準をすべてクリアしてしまうのだ。
けっきょく科学と疑似科学を区別するすべはないだろう、 というのが現代の哲学の趨勢だと伊勢田は おしえてくれる。(伊勢田自身の結論はそのような趨勢とは異るのだが、 彼の議論はここでは触れない。) ラウダンという哲学者は 満足できる基準をみつけることは不可能であり、 「科学の線引き問題は疑似問題だ」 (Laudan 1983)と 宣言した(という)。 ある理論が科学か疑似科学かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい科学か、悪い科学か」と問うことだけだというのだ。
水島の『ポピュリズム・・・』の冒頭部分を読んで学んだのは 同じようなことが 民主主義(デモクラシー)とポピュリズムの間の線引き問題にも 言えそうだということだ。 (以降、「ポピュリズム」の同義語として 「疑似民主主義」を使用する。) 当該の本から一節を引用しよう。 「西欧のポピュリズムでは、 右派であっても民主主義や議会主義は基本的な前提とされており、 暴力行動を是認する、 いわゆる極右の過激主義とは明らかに異なる。 ポピュリストの多くは、 少なくとも主張においては、 「真の民主主義者」を自任し、 人民を代表する存在と自らを位置づけている」(location232)。 このように水島は言う。
こう聞くと、ラウダンといっしょに言いたくなる — 「ある理論が民主主義か疑似民主主義(ポピュリズム)かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい民主主義か、悪い民主主義か」と問うことだけだというのだ」と。
(続く)