2025-03-15 こんどは「科学」と「民主主義」という概念を(それぞれ)一つの基準で定義できてしまうように、細工してみよう ---そうすると原発反対論や環境主義がポピュリズムになる

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2025-03-15] こんどは「科学」と「民主主義」という概念を(それぞれ)一つの基準で定義できてしまうように、細工してみよう —そうすると原発反対論や環境主義がポピュリズムになる

さて、ポピュリズムについて先日書いた文章では、 「科学と疑似科学の間に線引きができないように、 民主主義と疑似民主主義(ポピュリズム)の間にも 線引きができない」 — こんな結論がでるかもしれない、という議論をしてみた。

今回は「線引きはできる」というアイデアを 追ってみよう。 要するに、 手頃な基準を選んで、 それにあわせて概念を細工しようというのだ。 (パトナム風に言えば民主主義を〈一基準語〉にしてしまうのだ)

科学の線引き問題で参考にした ラウダン (Laudan 1983) に戻ろう。 彼が 議論の中で取り上げた(そして取り下げた) さまざまな基準がある — 「検証可能である」、 「反証可能である」(ポパー)、 「よくテストされている」などなどだ。 そのうちの一つに 「進歩や成長」という基準がある。 これについては (伊勢田の論文 (伊勢田 2019)から孫引きするが) 「進歩や成長を科学の要件としてし まうと、ニュートン力学のように完成されてそれ自体として はもはや発展の余地がない分野が科学でなくなってしまう」 (だから基準として採用できない)と (ラウダンは)言うのだ。

私はここでラウダンから袂を分かちたい。 ラウダンの直前の議論は、 (1) 「これこれの基準をつかうと、私たちが直観的に「科学」だとしてきた 理論まで「科学」ではなくなってしまう」というものである。 そして、(2) 「(だから)私たちが直観的に「科学」と呼んでいるものをテストする 基準はない」と結論する。 私がやりたいのは、(1) を認めた上で、 (2’)「私たちが「科学」という概念を変えていく必要があるのだ」という 結論とすることである。

これこそが戸田山・唐沢の言う「概念工学」 ((戸田山・唐沢(編) 2019)) (「概念のエンジニアリング」)であろう(知らんけど)。

これから じっさいに工作(エンジニアリング)を行ないたいのは「民主主義」という概念である。

まず「科学」という概念に工作してみよう。 ラウダンの議論の前提はこうだった — (1) 「進化と成長の基準をつかうと、 ニュートン力学まで「科学」ではなくなってしまう」。 「だからこの基準は採用しない」というのだが、 私が提案するのは「だからニュートン力学は科学ではない」と結論しよう、というのだ。 より正確に言えば、 「18世紀・19世紀にはニュートン力学は科学だったが、 現在は科学ではない」と。 これならば、 通常の「科学」という語の使用とはかけ離れてはいない、と私は思う。

さて、民主主義を一基準語にしよう。 「民主主義」という概念を、 ある基準でテスト可能なように作り替えよう。

候補としては 数えきれない数の基準(なにが民主主義と疑似民主主義を分けるのかを決める基準)があろう。 馬鹿らしい基準、「その思想に賛成する人が100人以上の思想」とか、 「その思想を最初に言い出した人の名前が「あ」で始まる」とかもあるだろう。 また、まっとうな基準もある。 水島のあげているこれまでのポピュリズムの定義を例として出しておこう。 「カリスマがいる」とか、 「人民に重きを置く」などなどの基準が考えられる。

私は「進歩や成長」をその基準としたい — ラウダンが 科学と疑似科学を分ける基準として取り上げた あの「進歩や成長」である。 私は、 「進歩や成長」は、 民主主義と疑似民主主義を分ける基準として十分に意義があると思う。 「民主主義」とよびたい思想、運動があったとき、 それ自身が進歩や成長するものであれば「民主主義」と呼び、 そうでなければ「疑似民主主義(ポピュリズム)」と呼ぼうというのだ。 そのように「民主主義」という概念を変更していきたい。

これから、 「進歩や成長」を「民主主義」の基準として 採択することを擁護していくわけだが、 まずは、関連する一つの現象を指摘したい — 水島は言う、 「ポピュリズムの特徴として最後に挙げるべきは、 そのイデオロギーにおける「薄さ」である」 (水島 2016) と。 ポピュリズムと呼ばれる思想を構成する一つひとつの単位、 たとえば「移民排斥」、「反科学主義」などなどは、 それについて皆で議論するようなテーマではない。 それは信じるか、信じないかというテーゼなのだ。 信じていれば「真」、信じていなければ「偽」となる。 それだけだ。 それ以上に議論は発展しない — 「進歩」も「成長」もないのだ。

「民主主義はみなで議論することで成長する思想だ」というのではなく、 「みなで議論することで成長する思想を民主主義と呼ぶ」というのだ。 そして、そうでないものが「疑似民主主義(ポピュリズム)」なのである。

この新しく工作した(エンジニアした)概念、 「民主主義」そして「疑似民主主義(ポピュリズム)」では、 これまでの直観的な使い方とのずれも生まれることになる。 たとえば、 (トランプの大嫌いな)「環境運動」や(清く正しい)「原発運動」もまた 「疑似民主主義(ポピュリズム)」に分類されることになるのだ。 [–深入りしないが、「良い」ポピュリズム、「悪い」ポピュリズムがあるのだろう–] そのずれを引き受けた上で、 これからこの新しい「民主主義」および「疑似民主主義(ポピュリズム)」の 概念の有用性を示していきたい。

(続く)