2026-04-29 今度の学会発表が『ドラゴンボール』みたいな長〜い「前回までのあらすじ」だけで終わっちゃいそうな予感・・・ ---(喋っている人が)10年以上にわたって書いてきたことを15分にするんだから、(聴いている方にも)面白いと思うが・・・どうだろう?

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2026-04-29] 今度の学会発表が『ドラゴンボール』みたいな長〜い「前回までのあらすじ」だけで終わっちゃいそうな予感・・・ —(喋っている人が)10年以上にわたって書いてきたことを15分にするんだから、(聴いている方にも)面白いと思うが・・・どうだろう?

5月末の日本文化人類学会の研究大会での発表、 「よろめきの美徳」 の大枠を考えてみた。

★ 「これまでのお話(その1)— ないものがない(否定性の欠如)」。

自閉症(『自閉症の現象学』 (村上 靖彦 2008))、 概念枠組(On the Very Idea of a Conceptual Scheme’ (Davidson 1974))、 (ウィトゲンシュタインの)独我論 (Tractatus Logico-Philosophicus’ (Wittgenstein 1961)) はすべて単相状況 (『心と他者』 (野矢 茂樹 2012 (1995)))であり、 その世界には「ないもの(隠れているもの)がない」。 自閉症の世界には理解できないもの(「他者」)がいないのだ。

★ 「これまでのお話(その2)— ないものがある(他者、異文化がある)」。

自閉症でない人の世界には影が、 見えないところが、 わからないものがある — すなわち世界は「ないもの」に溢れているのだ。 「分からないもの」の典型が他者であり、そして異文化である。 ないものがある状況こそが複相状況であり、 ウィトゲンシュタインがウサギアヒルの図 Philosophical Investigations’ (Wittgenstein 1968) で示したものだ。 複相状況とは地としての自文化の上に、図としての異文化を見る、 そのような状況である (「異文化の見つけ方」 (中川 敏 2015)、 「引用と人生」 (中川 敏 2016))。

<img pict/2026-04-27-tt-memo-1-pub.jpg” alt=”” width=”200”/>

★ 「これまでのお話(その3)— 「ないものがある」にも程度がある」。

複相状況にもいろんな程度がある。 「エンデの人々は妖術を信じている」と報告する宣教師と、 「エンデの人々は妖術を信じている」と報告する人類学者の複相には差がある筈だ。

★ 「今回解いていきたい問題 「図と地が反転するとはいかなることか」」

人類学者がいくら「深い深い、まきこまれる異文化理解」とわめいても、 (Deadly Words: Witchcraft in Bocage’ (Favret-Saada 1980)) 彼の複相の地は、あくまで、自文化である。 けっきょく、節子は土屋とわかれ、倉越家の嫁として生きてゆくのだ (『美徳のよろめき』 (三島 2021))。

地が異文化になってしまう状況、 地と図が反転する状況とはどんなものなのだろう? 反転(あるいは「転向」)のよい例は QAnon への信仰のめざめの中に見られる — 高学歴で、民主党支持の弁護士エミリが、 突然 QAnon の信者となる。 社会変革への熱心な支持者であったリベラルな考えをもつ アリスが突然 QAnon へとかたむいていく (The Quiet Damage: QAnon and the Destruction of the American Family’ (Cook 2024))。

なお、わたしが描きたいのは、因果関係ではないことを宣言しておきたい。 心理学的社会学的な説明はちまたにあふれているだろう。 クックの本がそうだし、秦の『陰謀論』 (秦正樹 2022) をはじめ様々な 本がこの現象(QAnon への転向)を社会学的に説明している。 そうではなくて、 わたしが描きたいのは、「地と図が反転する」というのは 論理的にどのようなものかということだ。

★ 「これまでのお話(その4)— トランプといじめ」

前回の発表、 「いじめの誘惑: ヒト、空気を読む」英語版) (中川 敏 2025) で行なったことは、 「いじめ」、とりわけ「冗談を武器にした いじめ」(〈いじめ/冗談〉)を、 デネットの「心(志向性)の埋め込みのレベル」を背景にして眺めてみることだった。 3次の志向性は霊長類学者が「(サルとヒトの)閾」として考えた「他人の心」である。 わたしは、3次の志向性を対象にする心的態度、 すなわち、虚構を楽しむ態度があることを指摘した。[–わたしはこれが「閾」であると主張したい–] いじめ/冗談とは、さらに、この「虚構を楽しむこと」自身を 対象にした態度なのだ。

★ 「いよいよ本文」

最後に、〈いじめ/冗談〉を可能にした舞台装置こそが、 地と図の反転に際の論理装置なのであることを示す。

・・・

なかなかいいじゃん。 これを枠組にして書き始めよう!