[Perlegi] 『草木虫魚の人類学 --- アニミズムの世界』 (岩田 慶治) ---畸人は世捨て人となったのだろうか?

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2020-08-29] 岩田は人類学者をつぎのように非難する — 「たいていの場合は、「○○族は木に魂が宿っているというが、 私(=人類学者)はそうは思わない」というデータの 後半部を切り落として、 その前半部分を○○族の宗教観念としているのである」 (p. 312) と。 ぼくにはこの指摘に問題が見出せない — 「問題はないだろう、木に魂は宿っていないのだから」。 岩田はそうは思わない — 「木に魂が宿る」のだと彼は言う。 でも、そうなってしまえば、 彼はもはや人類学者ではないだろうと、ぼくは言う。 いや、それこそが人類学なのだ、と岩田は言う。 「参与するということは — ほんとうに参与するということは そこで死ぬということであろう、 — 調査するものと調査されるものとの 共通の場をつくりだすことである。共通の場というのは、対話の場、〈問 えば答えるところ〉といってもよい」 (p. 22)。 ここで僕は「畸人」の (『説話の中の民衆像』 (小林 豊 1980)) を思いだす。 岩田はこちらの社会では畸人かもしれないが、 天上(あちらの社会)では君主なのだろうと。

とは言うものの、岩田の目はけっこうクールである。 彼はまだ「世捨て人」 (『世捨て奇譚 — 発心往生論』 (馬場 あき子 1979)) にはなっていないからだ。 彼は(まだ)木に魂が宿っていると信じることができていないのだ。 ただし、彼はそう信じたいのだ。 そこが僕と違う。 僕は普通の人間で、岩田は畸人なのだ。 その信じる道を探る分析の仕方は (動機は違うのだろうが)とても冷静沈着な人類学者のやりかたとなる。 「一般に伝統社会の 人びとは現世と他界、この世とあの世の実在を信じている。信じていると いうのは、われわれのいわゆる信仰、摩訂不思議なものの存在を半ば疑い ながらも、なお、そうあれかしと願って己れの判断を停止しているような 状態ではない。この世とあの世、生者の世界と死者の世界の実在が眼に見 えているのである。二つの世界の実在が血肉化しているのである」 (p. 115)。 この問題は、 ぼくが、 「異文化の見つけ方」(中川 敏 2015)から 「引用と人生」(中川 敏 2016)、 「異文化の遊び方—美学と人類学の 出会う時」(中川 敏 2016)、 「嘘の美学—異文化を理解するとは どういうことか」(中川 敏 2017)で えんえんと検討してきた問題だ。 出発点は岩田と同じだ。 信念に関する2つの態度である — 半信半疑の状態と信念を血肉化している状態とである。 僕はその二つの論理的な状況を分析するが、 岩田は(岩田らしく)血肉化するにはどうすればいいのかを 考える。 彼が挙げるのが:「強いる」「くりかえす」「さとる」の サイクルである — これは (フーコー好きでなくても言うだろう)「訓練」だ!

この本の中で岩田はある宣言をする — 「カミを訪ね当てられないであろうことを承知のうえで、私はこれからカミ を訪ねようとする。現代はカミと呼ばれる最後の価値を必要としているか らである。新たなカミが見つからなければ、人間と世界の統一は回復され ないからである。カミに背を向けてカミを訪ねに行く」 (p. 185)。 それは畸人から世捨への旅だったのではないだろうか? ぼくは岩田とは一度も会う機会はなかった[–だから「岩田さん」とも 「岩田先生」とも言う資格はもっていない–] — 岩田はカミを見つけたのだろうか?

彼は畸人から世捨人になったのだろうか? そんなことを考えた。

とは言うものの、岩田の目はけっこうクールである。 彼はまだ「世捨て人」 (『世捨て奇譚 — 発心往生論』 (馬場 あき子 1979)) にはなっていないからだ。 彼は(まだ)木に魂が宿っていると信じることができていないのだ。 ただし、彼はそう信じたいのだ。 そこが僕と違う。 僕は普通の人間で、岩田は畸人なのだ。 その信じる道を探る分析の仕方は (動機は違うのだろうが)とても冷静沈着な人類学者のやりかたとなる。 「一般に伝統社会の 人びとは現世と他界、この世とあの世の実在を信じている。信じていると いうのは、われわれのいわゆる信仰、摩訂不思議なものの存在を半ば疑い ながらも、なお、そうあれかしと願って己れの判断を停止しているような 状態ではない。この世とあの世、生者の世界と死者の世界の実在が眼に見 えているのである。二つの世界の実在が血肉化しているのである」 (p. 115)。 この問題は、 ぼくが、 「異文化の見つけ方」(中川 敏 2015)から 「引用と人生」(中川 敏 2016)、 「異文化の遊び方—美学と人類学の 出会う時」(中川 敏 2016)、 「嘘の美学—異文化を理解するとは どういうことか」(中川 敏 2017)で えんえんと検討してきた問題だ。 出発点は岩田と同じだ。 信念に関する2つの態度である — 半信半疑の状態と信念を血肉化している状態とである。 僕はその二つの論理的な状況を分析するが、 岩田は(岩田らしく)血肉化するにはどうすればいいのかを 考える。 彼が挙げるのが:「強いる」「くりかえす」「さとる」の サイクルである — これは (フーコー好きでなくても言うだろう)「訓練」だ!

この本の中で岩田はある宣言をする — 「カミを訪ね当てられないであろうことを承知のうえで、私はこれからカミ を訪ねようとする。現代はカミと呼ばれる最後の価値を必要としているか らである。新たなカミが見つからなければ、人間と世界の統一は回復され ないからである。カミに背を向けてカミを訪ねに行く」 (p. 185)。 それは畸人から世捨への旅だったのではないだろうか? ぼくは岩田とは一度も会う機会はなかった[–だから「岩田さん」とも 「岩田先生」とも言う資格はもっていない–] — 岩田はカミを見つけたのだろうか?

彼は畸人から世捨人になったのだろうか? そんなことを考えた。

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