2020-08-31 『歌うカタツムリ-進化とらせんの物語』(千葉 聡)を読んだ ---中立説の山田風太郎・明治もの風の解説!一気読みでした

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2020-08-31] 『歌うカタツムリ-進化とらせんの物語』(千葉 聡)を読んだ —中立説の山田風太郎・明治もの風の解説!一気読みでした

話は19世紀、 ハワイの「歌うカタツムリ」伝説から始まる。 このカタツムリの歌を聞いたことがあるという宣教師がいた — 名前をギュリックという。 ギュリックこそ、 これから長く続く 偶然(中立説)と必然(適応主義)の論争を開始した人間なのだ。 彼はハワイでのカタツムリの観察を通して、 自然選択とは無関係に、 種のもつ性質が(ランダムに)変化することによって 種分化が起こると主張したのだ。 すぐに適応主義者(生物のあらゆることが 自然選択から説明できると考える人間)ウォレスからの 反論を迎える。

この論争と日本との関係は深い。 中立説の立役者木村資生はもちろんだが、 カタツムリと日本の関係はもっともっと前に 遡る。 じつは、ギュリックは後に宣教師として日本に来ているのだ。 彼は日本の学会に大きな影響を与えた。 また、あのモース (『日本その日その日』(すばらしい民族誌だ)の、 あるいは「貝塚を発見した」モース)もまた 貝類学者である。 そのような歴史的背景をもつ日本の学会があるからこそ、 敗戦直後でありながら 二人の日本人(駒井卓と江村重雄)が、 その当時のカタツムリ論争に参加できたのである。 この二人によって、 螺旋はさらに大きく広がってゆく。

著者の千葉のライフヒストリーもまた カタツムリ論争の螺旋に巻き込まれながら語られる。 彼および彼の先生(麻雀をめぐる小話は笑ってしまう)、 そして彼の弟子たちが論争にかかわっているのは 当然だが、 面白いのは彼の「幼少の時分」の母に関する思い出である。 母はよく千葉に、彼女が心酔していた理科の先生 (中山伊兎)のはなしをしたという。 この先生、およびその夫の中山駿馬(しんま)は、 駒井に多くの試料(カタツムリ)を提供した人物なのだという。 ・・・因果はめぐる・・・。

螺旋はぐるぐると巡り、ひろがってゆく — ある時点で中立説(偶然派)が勝利し、 つぎの時点でまが適応主義が勝利する。 しばらくするとまた中立説が勝つ。 けっきょく適応主義が完全勝利をおさめるのだが、 中立説は(木村資生の)「分子進化の中立説」として 適応主義と手をたずさえて、 現代の進化の総合説を支えることとなるのだ。

あの壮大で血沸き肉踊る 『社会生物学論争史〈1〉〈2〉 — 誰もが真理を擁護していた』 (セーゲルストローレ 2005)、 以上に(スケールでは負けるが)面白い本だった。

素人の観想をしょうしょう・・・

分子進化の中立説 以前の話に限定する — いまからの議論では「中立説」というコトバには、 分子進化の中立説は含めない。 ギュリックの説、 ある特徴は適応とは関係なしにも 集団に広がっていくという説だけを「中立説」と 呼ぶこととする。 またウォレスのような 進化に関わる要因は適応だけだという 適応万能主義を「適応主義」と呼ぶ。

さて、 適応主義と中立説の戦闘は、簡単にいうと、 次のようになる — 中立説が適応主義では説明できない例 (ハワイのカタツムリや小笠原のカタツムリ)を 出し、「この性質(たとえば殻が左巻きだという性質)は 適応とは関係ない。 だからこの性質はたまたま集団にひろがったんだ」と主張する。 適応主義者は その現象を適応から説明しようとする — 「いやいや、殻の巻き方は、 天敵である蛇の攻撃方法と関係している。 だからこの性質が 集団に広がったのは適応によるものだ」と。 中立説はつぎかから次へと(一見)適応が関与しない例を 出し、 適応主義者は個別にそれを打破してゆく。

以上が「論争」の構図である。 こうまとめてしまうと この論争は決着のつくような論争なのだろうか? という疑問がわいてくるだろう。 たしかに、いまのところ、 どの例も「適応」によって説明されている。 しかし、 次の例も説明できるかどうかは 誰にも分からない、ということだ。

もしかしたら論争の仕方が間違っているのではないか・・・ ふと、そんな風に考えた。 ではどんな論争の仕方であるべきなのか? — ぼくにはまだ答えられない。 ただ、論争の仕方に関して 感じる居心地のわるさは、それなりに 説明できるような気がする — スマートによる生物学批判と重なるような 気がするのだ。 以下、孫引きである — 『セックス・アンド・デス — 生物 学の哲学への招待』 (キム ステレルニー \& ポール・ グリフィス 2009) のなかの一節 (p.4) である —

「有名な科学哲学者であり、 心の哲学者でもある J.J.C. スマートは、 生物学者を無線技師にたとえている。 生物学者は、一惑星においてたまた生じることになった、 ある種の物理的システムのはたらきを 研究しているにすぎない。 スマートにしてみれば、 このように視野の狭い学問が、 自然の根本法則を解き明かしてくれるとは 思えなかったのである (Smart 1963)。」

別の言い方をしてみよう。 進化のメカニズムを、 生物の進化以外に使おうとしている研究者がいる — たとえば、 ミーム論者、あるいは またさまざまな学問(哲学、人類学)の 「自然化」を目指すひとたちだ。 千葉の紹介する論争は、 そのような人たち(ぼくもはいっている)を 納得させるような論争ではない、ということを 言いたいのだ。

「じゃぁどんな形の論争がいい論争の形なのか?」 — ぼくには分からない。 ゆっくり考えてみたい。