2023-08-22 『ベケットと「いじめ」』を読み終わった ---演劇論としても、哲学の書としても、抜群だ

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2023-08-22] 『ベケットと「いじめ」』を読み終わった —演劇論としても、哲学の書としても、抜群だ

『ベケットと「いじめ」』 (別役 実 2005)を読み終わった。 一度読んだときにも感心したけど、 今回、あらためて素晴しい本だと思った。

別役による、この本のメインテーマ、 「いじめ」とベケットの不条理劇の分析は 「素晴しい」の一言につきる。 その才能がうらやましい。 その分析の評価は、後日ゆっくり語りたい。 今日は、この本の周辺の周辺のテーマである 「なぜ不条理劇がぽしゃったか」にの議論を感嘆に紹介しよう。

この議論は本の中で二回にわけて書かれている。 冒頭、別役は(いささか印象論的に) 演劇というものは、 方法論化できる20 %の部分と その他の80 %の部分とに分けうると主張する (もちろん数字は単なる「イメージ」だ)。 1960年代は演劇の方法論が盛んに議論された時代である。 だからこそ、その時に、演劇の方法論が演劇となったような (ベケットに代表される)不条理劇が流行ったのだと別役はいう。 これが冒頭の部分である。 議論はこの後、1980年代に起きた実際のいじめ、 「富士見中学」事件へとうつる。 その分析がおわったあと、 そのいじめ事件の構図がじつはベケットの劇の描く構図と そっくりだよ、という後半の議論が始まるのだ。 そして、すばらしいベケットの劇の分析を終えたあと、 でもベケットに代表されるような所謂「不条理劇」は今日 ほとんど上演されないと、彼はつづける。 60年代の特殊な状況ならともかく、 こんなつまらない劇に金をはらってまで見にくる客がいないから、と いうのだ。

いやぁ、痛快きわまりないですね。

ポイントはさきほどの80 %、20 %議論なのだ。 要は、より重要な80 %の部分、これは「公の部分」であり、 この部分を無視した、 いわば演劇の方法論が演劇になってしまったような 不条理劇には見世物的な魅力がな全くいというのだ。 繰りかえそう・・・ そんな劇はつまらなく、客が入らないのだ。

ダントーのさまざまな議論 (『ありふれたものの変容』とか『芸術の終焉のあと』とかの議論) に対してぼくが持つ不満、 それは現代芸術(とくに美術 fine art)に対してもつ 不満と同じなのだが、 その不満を、別役は見事に描写している。 そう、 「芸術の方法論」は面白いが (その意味で、ぼくはダントーの本は好きだ)、 「でもそれだけでは芸術じゃないんだ。 見世物的要素こそがより重要なんだ!」と、 ぼくは叫びたかったのだ(と別役が教えてくれた)。

ぼくは言いたい、「現代芸術にはオチが必要だ!」と。 それでこそ「金のとれる」芸となるのだ、と。

あらたな問題は・・・ 演劇では「方法論だけの演劇」がすたれたのに、 美術では「方法論だけの美術」(最たるものはコンセプチュアルアートだろうか) が、 まだまだ隆盛を極めているという不思議さだ。 あんなつまらないモノに、人々はまだまだ金を払っているのだ。

たぶん、この不思議さ自身が、 別役の「80 %、20 %議論」の正しさを証明しているのかもしれない。 すなわち、この不思議さの原因は、、 美術に「公」の部分が少ないことなのだ・・・ということだ。