2023-03-16 「アブダクション」の考え方がいくつかの問題系を結合していることに気がついた _LBL(ABD) ---いくつか論文が書けるかも `(^_^)`

食事、コンピューター、インドネシアについてのひとり言。 ときどき人類学なども。

[2023-03-16] 「アブダクション」の考え方がいくつかの問題系を結合していることに気がついた _LBL(ABD) —いくつか論文が書けるかも (^_^)

「アブダクション」に関して、 私がいままで暖めてきたアイデアは、 大ざっぱにいって三種類にわかれるようだ。

第一の問題は、 (1) 推論の種類の1つとしての「アブダクション」という 問題だろう。 「帰納」ということばで 演繹以外のすべての推論を指すこととする (これが議論を最もすっきりさせる用法だ)。 アブダクションは、もちろん、 帰納の一種ということになる。 さて、 「帰納とは何種類あるのだろうか?」 動物も一般化(帰納の一つだろう)は可能だ。 ネコ1 とネコ2 を一般化して「ネコ」として把握できなければ、 ネズミは生き延びることができないだろう。 ネズミには一般化の(帰納の)能力がある。 それに対して、 アブダクションは人間だけに可能な推論だと思われる (後述の (2) の問題系を参照せよ)。 というわけで、 帰納には少なくともこの二種類があるようだ。 しかし、まだまだいろんな種類の帰納が (演繹以外の推論の方式)があるような気がする。 帰納には何種類あるのだろうか? ポパーが『推測と反駁』の中で主張する、 帰納とは一線を画す推論のある方法がある。 これも(演繹ではない、という意味で)帰納の一種である。 (なお、わたしには、 この推論形式は完全にアブダクションだと思える。)

直前の段落で、 私は人間とその他の動物の違いについて触れた。 (2) この人間とその他の動物の「違い」という脈絡のなかで アブダクションを考えるのが、第2の問題系である。 動物と人間の違いを考えるとは、すなわち、 閾問題 (threshold problem) である。 動物に欠けていて、 人間が人間になるのに重要であったと考えられる 能力として「規則性を見つける能力」がある。 人間が、動物とはっきり違うのは、 その規則性へのこだわりである。 この能力こそがアブダクションだ、という議論である。

今井は『ことばと思考』の中で、 個体発生の過程で(ようするに赤ちゃんから大人になる過程で) 母語の獲得にともなって、 赤ちゃんは、 もって生まれた様々な能力のうち 母語による世界把握に不要な能力を捨てていくという 議論をしている。 ハンフリーも _The Mind Made Flesh: Frontiers of Psychology and Evolution _’ の中で同じようなことをいっている。 ただし、 彼の議論は系統発生(猿からヒトへの過程)の中での議論だ。 そして「喪失と獲得」の順番が今井の議論とは逆である。 猿には膨大な事象を記憶する(丸暗記の)能力がある。 これは生存に大きな貢献をしたであろうと考えられる。 ハンフリーが想定しているのは、 ヒトの祖先はあるときこの大切な能力を失なってしまった、という物語だ。 100万に1つの僥倖で、 ヒトの祖先たちはこの能力を補ってあまりある別の能力、 すなわち、規則性を発見する能力を身につけた・・・というのだ。 ジャスト・ソウ・ストーリーである (第3の問題系を参照のこと)。 私が主張するのは、この新たに獲得された能力こそが アブダクションだ、ということである。

余談だが・・・「心の理論」は (もし、上のおとぎ話が正しいならば)アブダクションによる 最高傑作であろう。 じっさい、 このおとぎ話は、セラーズのおとぎ話 (「ジョーンズ革命」)ととっても親和的だ。

(3) 最後の問題系は、 「アブダクション」と 「アブダクションもどき」問題である。 「アブダクション」は「エウレカ!」である。 しかし「エウレカ!」が すべてアブダクションであるわけではない — あるいはアブダクションとは認めたくない推論 もあるのだ。

コペルニクス的転回も、 メンデルが遺伝子のアイデアを思いついたのも、 海岸線から導きだされた 大陸移動説のアイデアもアブダクションだろう。 アブダクションは「エウレカ!」なのである。 しかし 多くの偽科学も「エウレカ!」の形をとっている。 陰謀論もしかり、だ。 これらの「理論」を 私は「アブダクション」とは呼びたくない。 しかし、 何がよきアブダクション(例えば科学革命)と 悪しきアブダクションもどき(例えば偽科学あるいは Q-Anon など)をと分けて いるのだろうか。 この第3の問題は、 「よいジャスト・ソー・ストーリーズ」と 「悪いジャスト・ソー・ストーリーズ」の問題とも 言うことができるだろう。 なお、この言い換えで、 私は、グールドによる「適応万能主義批判」の あの有名な論文のことを考えている、ということを 付け加えておきたい。