2006 East Timor Crisis
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概観
(ウィキペディアよりのまとめ)
軍内部での差別に不満をもった 兵士たちによる反乱と言われている。
ティモール・レステ全土に暴力 ( Violence) が広がり、 とりわけディリ Dili city がその中心であった。 各国からの軍事介入があり、 その結果時の首相 Prime Minister であった Mari Alkatiri が辞任するにいたった。
原因
軍内部の対立
軍内部での「東西対立」East-West opposition に基づくといわれる。
東側 Lorosae に比べて、 西側 Loromonu は インドネシアへの抵抗において 目立った活躍がなかった。 それが軍内部における西側差別につながった。 その状況に西側の兵士たちが不満をもったのが、 原因であると言われる。1
東西対立はインドネシアへの抵抗における 貢献にもとづくものではなく、ウェハリ Wehali 王国との関係にもとづくものである、という。
さらに、 反乱兵士たちは大統領 President である Xanana Gusmao を 支持し、 首相の Alkatiri に反対している、という 政治的な動機もあったと言われる。
商人の間での対立
East-West opposition は軍内部だけではなく、 商人の間にもあったと、Fox は言う。2
あいまいな記憶だけで書くとディリ Dili city の商人の間で 東部出身と西部出身の対立があった、という 話だったと思う。
白檀
[@yoder-wood_and_wax] は、 白檀 sandalwood をめぐるさまざまな紛争を書くなかで、 「2006年の事件の重要人物 (key figures)」が 白檀の豊富な Oecusse 出身であるという 事実を指摘している。3
推移
2006-02
2006年に兵士の離脱が始まった。 当時の Foreign Minister であった Jose Ramos-Horta は 離脱兵士たちの不満を聞くための会議を開催すると宣言した。
2006-04
4月26日にもと兵士とその支持者 (失業中の若者がほとんど)がディリの市街 (Dili city)を デモする。 最初は平和的なデモだったが、 暴動となる。 Crisis-2006-Dili 4 おおくの市民がディリから避難した。
[@robinson-ten_years_on] によれば、 4月のデモのときに「周辺のグループ」 ("fringe group")の Colimau 2000 と失業中の若者が デモに加わったとする。(p. 1012)
2006-05
5月4日に Alfredo Reinado 大佐は、 自らが率いる小隊、その他の軍および 警察軍 (military police) とともに Aileu の町にこもる。
この時期、ギャングが ディリの町を徘徊した。
反乱軍はディリをとりまく丘陵に陣をはる。 Alkatiri は「クーデターだ」と呼ぶ。
国連 PK は5月20日に東ティモールを離れた。 Ramos-Horta は ニュージーランド、オーストラリア、 ポルトガルそしてマレーシアに応援を要請する。 かくして Operation Astute が始まった。
それでも混乱はおさまらず、 ディリの治安は乱れたままだった。 ギャングが大暴れしたそうだ。
【工事中】
サメの戦い
2007年3月 Battle of Same で、 オーストラリア軍が「反乱軍」の一部を拘束する。 Reinado はオーストラリア軍の 非常線を突破して、 山岳部へはいった。
【工事中】
評価
いくつかの外国のマスメディア(下にある ABC の記事など)は、 この騒乱を、 「ティモール・レステの発展を遅くした、 意味のない騒乱」ととらえている。
参考文献
- Wikipedia
- "Total Madness" --- an ABC news article
- [@scambary-anatomy]