インドネシア語
[[!tag _Language]]
1950年代
戦後の資料はまだ見つけていない。
ただ、 [@chamberlain-steps] によると、 1954年のディリのオーストラリア領事館 (Australian Consul in Dili) のメモランダムが ある。 そこに Malay および Malay-speaking population の不満について書かれている。 その人々が "a relative small percentage" と言及されている。
1990年(世代別)
[@jones-education] が 1990年(インドネシア時代)のセンサスの データを引用している。1
「世帯主が東ティモールで生まれている人」 なので、 基本的にはインドネシア人は含まれていない。
[[!table data=""" Age Group | Male | Female| 15--19|85.0|77.4| 20--24|78.3|59.3| 25--29|64.6|43.2| 30--34|57.5|31.7| 35--39|46.8|27.1| 40--44|34.7|16.8| 45--49|30.5|15.4| 50--54|25.0|12.3| 55--59|20.5|8.9| 60--64|16.0|9.1| 65--69|20.0|8.7| Total|56.4|39.4| """ ]]
この1990年のデータによれば、 全人口(非インドネシア人)のうち、 男性が 56.4 %、 女性の 39.4 %が インドネシア語をしゃべるということになる。
わたしたちの 最初の調査はこのデータの23年後となるので、 このデータの最年少である「15--19歳」 (80 %が喋る)でさえ既に40歳である。 このデータのあと、 さらに約10年インドネシアの教育が行なわれたことを 考えると、 わたしの印象 (ひじょうに多くの人がインドネシア語をしゃべる)は 間違ってはいないだろう。
1995年(地域別)
[@hajek-survival] は1995年のセンサス (インドネシア語話者のパーセンテージ)を引用している:
[[!table data=""" |Area | Men | Women|Total| |Aileu|68.69|58.11|63.81| |Ainaro|57.36|42.20|49.81| |Ambeno|46.52|38.32|42.46| |Baucau|62.43|49.00|55.91| |Bobonaro|64.90|49.18|56.68| |Covalima|62.88|50.20|56.53| |Dili|88.14|79.35|84.00| |Ermera|58.37|51.78|55.30| |Lautem|70.02|50.09|59.97| |Liquica|60.09|48.41|54.33| |Manatuto|74.17|61.75|68.05| |Manufahi|68.94|54.08|61.61| |Viqueque|48.89|39.23|43.98| |Total|66.30|54.10|60.34| """ ]]
Source: Statistik Kesejaterahan Rakyat Timor Timur 1995, Hasil Survey Sosial Ekonomi Nasional 1995
Ambeno (Oecusse) のインドネシア語話者の 少なさには、 ハジェック自身おどろいている。 (Thomaz 1974) によれば、 ここが唯一マレーが第二言語として 使われている場所だというのに。 ハジェックの答は:
- ソ連時代にアルメニア人がロシア語をしゃべることを 言わなかったように、アンベノの人びとはインドネシア語を 喋ると言わなかったかもしれない
- もしかしたら、自分たちの lingua franca を インドネシア語とみなさなかったのかもしれない
というものである。 [@hajek-survival] p. 194
[@gunn-language] は1998年の旅行で、 Tetun ではなく、 インドネシア語が lingua franca として使われていると 報告している。
調査時の印象 (2013)
24年間のインドネシア時代を 過ごした人にインドネシア語が普及していたの (わたしたちの印象)は 思った通りである。
テレビ番組を通じての 現在の子どもたちへの浸透はかなりのものだ、と 話す人もかなりの数いた。 じっさい小学生、中学生とも インドネシア語によって会話ができた。 (レテフォホでは?)
- データの分母は↩