フィケケの叛乱

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チェンバレンによる 『叛乱、敗北、流刑』[@chamberlain-rebellion] が詳しい。 同じ著者の [@chamberlain-steps] も かなりのページを割いている。

インスピレーション

([@chamberlain-steps] p. 35) 1930年代後半/1940年代初頭に Francisco "Ciko" ("Siku/Siko") Lopes という 「ナショナリスト」で独立運動家が オランダ領ティモールを出て、 ポルトガル領ティモールに入った。 Francisco Lopes はポルトガルに逮捕され、 Atauro 島の監獄に入れられる。 釈放された後、 Lopes はオランダ領の Atambua に ひそみ、 ポルトガルからの独立を画策した。 独立運動家たちが、 プロテスタント (Protestant) の牧師を通して、 国境近くでロペスと接触したと 言われる。 彼らは、ディリ (Dili city) の インドネシア領事と連絡をとった。

発端

この後のチェンバレンの記述は 詳細をきわめる。 内容は [@chamberlain-steps-summary] に 譲る。

以降は簡単な 以下は [@gunn-dictionary] p. 174--5 による ものを挙げる。

発端

1958年、14人のインドネシア人 1 が 西ティモール West Timor から Oecusse に入り、 亡命を申請した。

彼らはの申請は受け入れられ、 彼らは Baucau city に再定住した。

きなくさい動き

1959年、ポルトガル当局は ディリ Dili city に (インドネシア領事館が扇動したと思われる) 不穏な動きがあることを察した。

陰謀

1959年12月21日、 5人のインドネシア人が バウカウを出て、フィケケ (Viqueque) に 移動した。 Uato-Lari と Uato-Carabau の首長と陰謀をめぐらし、 ポルトガルへの叛乱を計画した。 ポルトガル政府は、 ティモールにおける革命的な動きを 認知した。

攻撃

1959年5月27日、ディリでは叛乱にそなえ軍が出動した。

6月3日に政府と警察が叛乱首謀者として15名を逮捕した。 叛乱にかかわっているとされた14名のインドネシア人も 拘留された。 ディリだけで 120 から 200名のものが拘留された。

(この事がフィケケの叛乱者たちをあせらせたのだろう) 1959年6月7日、フィケケの叛乱者たちは Uai-Lari の post を襲撃した。 叛乱の鎮圧はすばやく、 ある推定によると数百名の死者を出したという。

歴史的評価

APODETIFRETILIN もともに 評価する。

  • APODETI インドネシア統合への先駆者として
  • FRETILIN 反植民地主義の近代ティモール・レステの先駆者 として

インドネシア政府にとって、 この叛乱は、プロパガンダのためにも重要である。 1990年代にこの歴史を再構成するプロジェクトがはじまり、 本が出版された。 2004年までインドネシアのメディアは、 いまインドネシアに残る統合派の戦士たちの多くが、 1959年の叛乱者たちの子孫だと宣言していた。

コメント 【SN】

(すくなくとも [@gunn-dictionary]の 記述においては)固有名がまったく出ていない。 この中に hero はいないのだろうか?

関連項目


  1. うち二人は軍人であった。