ウィハレ王国への侵入 (フランシロン)

[[!tag _Bib]] [[!toc levels=2]]

  • Incursions upon Wehali: A Modern History of an Ancient Empire
  • by Francillon, G\'erard
  • Summary made by Satoshi Nakagawa
  • on [2015-04-11]/

オリジナルには節も小節もない。 以下の節・小節は、すべて【SN】によるものである。

現在のウィハレ

現在 (1980) の Wehali は小さな王国 (princedom) に すぎない。

  • 人口は 11,000
  • 人口密度 85/km2
  • 肥沃な土地

政治機構

  • 王: Nai ("Lord") Taèk Bari
    • Fetor (from Port feitor)
    • Konrnè (from Port coronel)
  • 40 を越える村を支配(27 の Temukun 村長)

  • 一つの村は 3 から 4 の fukun (母系氏族)からなる
  • それぞれが 6 から 12 ほどの世帯を含む
  • 世帯には 5 から 10人の人が含まれる

フクン(母系氏族)

  • fukun の長は Fukun と呼ばれる
  • Kabu (from Port cabo, "corporal") と 呼ばれる役職に若い男がつく

王の役目 (249)

紛争は Wehali の王 (Radja) によって処理される。 つぎのようなものは、 王の法廷でさばかれる:

  • 相続 (inheritance)
  • 養子 (adoption)
  • 婚約不履行 (broken engagement)
  • 債務不履行 (unpaid debt)

この法廷で決着がつかなければ camat (インドネ シア行政組織、郡長)にもっていかれる。 1

「王国」という名であるとは言え、 内実は desa (行政村落)のレベルの単位なのだ。

王は税の収集をうけおう。

行政の重要な補助のやくわりを果たす。

行政

ブトゥン (Betun) にいるチャマット(郡長)は、 アタンブア (Atambua)の ブパティ(県知事)の下に位置する。

ブパティやチャマットは村の事情は 全く知らない。 村人は、彼らを抑圧的なものと見なしている。

とは言え、

  • 現在のチャマット(郡長)は Liurai of Malaka の称号を
  • 現在のブパティは Radja of Kewar (Kewar is a separate princedom of Bunaq-speaking people) を、それぞれ、持っている

さらに Késér ("emperor") のタイトルを持つ者がいる。 クリスマスかイースターの時にのみ、 人々は彼を認識する。 このケセールの地位は、 最も議論の的になる地位でもある。

歴史

現在のウィハレの社会構造は、 1904年にマテイセン神父 (Father Mathijsen) の 記述 ([@mathijsen-04]) と大きくは変わってない。

The overlord of Wehali ... did not impress us favourably. He spoke very little and sat there looking rather indifferent. The Controleur asked him the number of villages under him,their names,and the names of the village headmen and also asked about the territories of his resort. The great lord hardly answered and let his spokesman, Lord Tahu,speak for him; Lord Tahu spoke at the top of his voice as if he thought that we were all deaf [1904, pp. 31--32]

数日後神父と Controleur は Uma Lor で Radja of Wewiku に会う。 ここでの印象はもっとよいものだった。

(p. 250) ここから Lord of Rabasa 2 の地にはいると、 村人たちが敵対的で、 彼等は護衛隊ともども Uma Lor へと 引き返さざるを得なくなった。 (p. 251) 威厳をたもつために、 Controleur は、 Radja of Wewiku にいっしょに Rabasa の地へ 入ることを要請した。 Radja Wewiku はそれを無視した。

Rabasa の名前はない。 ウィハレの勢力の「西端」に位置するという。

オランダの軍事遠征

1906年、オランダの軍事遠征が Wehali の地にはいった。

軍事遠征隊は、 途上、AmanubanAmanatun の争いなど を調停した。

Here [at Rabasa on the western border of Malaka] the expedition met serious resistance; and on November 11 and 12,1906, at the River Weiman, a fierce battle was fought, during which the Lord of Rabasa, Maroè Rai, was killed (Koloniaal Verslag, 1907,pp 79--84).

オランダは、 Besikama に最初の post を、 Betun (当時は小さな村)に二番目の post を築いた。

Wehali の中心地である Laran で、 オランダは Nai Bot ("Great Lord") に近付き、 彼をこの地の責任者とした。 スポークスマンである Lord Tahu Taèk は、 Great Lord で Kesér である者に、 そのような役は似つかわしくないと主張した。 Great Lord は世俗のことにかかわらないのだ。

ウィハレ王国の勢力範囲は 西は Sonbai と境を接し、 東は Likusaen 王国と境を接する。3

もしかしたらリキシャLiquica かしらん

  • Lord Tahu Taèk: ウィハレをつかさどるが、
  • Lord Tere Seran Ulu Baete of Builaran in Fatu Aruin: じっさいの政治運営をする

 As the Liurai of Malaka,it was his 4 task to oversee the political affairs of the four peripheral Loro princedoms --- Wewiku and Haitimuk to the south and southwest,and Dirma and Lakekunn 5 to the north and northeast --- that composed Malaka Foun,the "New Malaka." Furhtermore, in the capital village Laran (whose name means "central"or "middle"), the various fukun headmen managed their own affairs. (p.252)

か?

[@nordholt-71] の p. 154 の地図に 記載されている。

[[!img pict/nordholt-71-south-belu.jpg size=400x caption="South Belu"]]

継承

The Liurai であった Lord Tere Seran は、 息子の Loius Sanaka Teeseran によって 引き継がれた。 彼は Camat [^camat] になったが、 父同様の権力しかもたなかった。

それともインドネシア時代のことなのだろうか?

The Kesèr である Lord Baria Nahak 6 は、 Lord Seran Nahak (a classificatory sister's son)によって引き継がれた。 彼も前任者同様、おとなしい男だった。

(p. 253) スポークスマンである Lord Tahu Taèk は、 姉妹の息子である Lord Taèk Baria が 引き継いだ。 こいつはやかましいやつだった。7

これらの継承が起こる前から筆を起こしている。 ちょっとわかりにくい。

統合

オランダは小さな単位を大きな単位にまとめる というポリシーをとった。

1916年

1916年には中部ティモールは次のような状況になった:

  • Belu Tasi Feto in the north: Radja of Jenilu
  • Malaka in the south: Liurai Tere Seran

北のほうにオランダの注意はそそがれた。 そこに capital である Atapupu があった からである。 (後に capital は Atambua に移された。)

1924年

中部ティモールの2つの subdivisions は統合さ れ、一つの regency となった。

The Kesèr, Lord Baria Nahak が、とうとう、 そのトップにたったのである。 そして Radja of Belu として認められた。

継承

【SN】ここで、さきほどの「継承」の 出来事が起きる。

Kesèr と Liurai が相次いで死ぬ。

ケゼルの地位

  • Kesèr を継いだのは: Seran Nahak of Haitimuk

最初の年には、Seran Nahak は Laran から Atambua に移動するよう 要請はされなかった。 また、政府関係の仕事も期待されなかった。

しかし、1926年、 オランダ政府は彼をアタンブア (Atambua)に呼び、 Radja of Belu として Korte Verklaring への 署名を要請した。

Lord Atok Samara of Bauho がそれに反対した。

(p. 254) オランダ政府は Atok Samara を 北部の Loro から解任した。 その他の多くの(北部の)首長たちも、 オランダ政府のこの決定(SEran Nahak を Radja of Belu にするという決定)に反対した。

オランダ政府が調査をする。 Seran Nahak が正当な後継者であることを 確認した。 しかし Nai Seran Nahak は面目を失ない、 Radja of Belu の地位から何度も辞任しようとした。 1930年にその辞意は受領された。

リウライの地位

Liurai Tere Seran の息子 (Antoni Manek Teeseran) は当時15歳であった。 若すぎるので、 代理 (deputy) として (Radja of Manlea である) Lord Seran Asit Fatin が選ばれたた。

この決定はマラカでは問題なく受け入れられた。 しかし Lord Seran Asit Fatin が(Kesèr に代わって) Radja of Belu になることが決定されると、 北部ベルにおいて不満が爆発した。

アタンブア (Atambua)で開かれた集会で、 (かつての Loro of Bauho であった) Lord Atok Samara は, この deputy Liurai を呪詛した。 Deputy Liurai は帰途、死んだ。 それゆえ、Lord Atok Samara の言い分 (Lord Seran Asit Fatin に Radja of Belu にな る権利はない)が 正しいとみなに(オランダの行政官にも) 判断された。

オランダ政府は、 Lord Atok Samara を再び Loro Bauho に 再任した。

1932 暫定自治評議会 (254)

(以上から見ることができるように) 南北の対立はあった。 しかし、敵対関係があったわけではない。 この状況を、オランダはさらに複雑にしてしまう。

1932年、三人の貴族 (nobles) が選ばれ、 暫定自治評議会 (self-governing Providional Council) を構成し:

  • Lord Atok Samara (Loro of Bauho)
  • Lord Benedictus Leki (Loro of Lalekun)
  • Lord Bere Nahak (old Loro of Wewiku)

(p. 255) 三人は給料を減額を申し込んだ。 それで亡くなった Liurai の息子である Anton Teeseran に教育をあたえるよう 政府に申し込んだ。8

教育を受けた。しかし、それはジャワでもフロー レスでもなく、スンバワ島の Bima であった。 そこではより進んだ教育もなければ、よりよい 設備もなかった」と書かれている。やっぱり、 フローレス島は教育では「進んで」いたんだ。

オランダ政府は(Anton が予定より長く Bima に 滞在していたことを受けて、) 暫定評議会をなくし、 Kesèr に全権(本来は Liurai の息子である Anton に行くべき 権利)を与えるよう 要求した。

Nai、Fukukn そしてスポークスマンの集りは、 政府のこの要求に反応しなかった。

1941 三分割

1941年にオランダはベルを3つの地域に 分割しようとした

  1. Tasi Feto in the north
  2. Malaka in the south
  3. Lamaknen in the northeast

こうすることで古い貴族の力がなくなる。9

ちとわからんん。

三分割は Bunaq の地域 10 が、 Tetun の地域から相対的に独立することになる。

おそらく Kewar も同じ地域なのだろう。

そしてそれぞれが独立性の強い地域になるはずだった。

しかし日本が侵入してきた(1942年)。

二人の貴族が死んだ

  • Loro of Wewiku
  • Loro of Bauho

日本軍政

日本はオランダの三分割を引き継いだ。 ただし、南部に工夫をこらした。

Radja of Tasi Mane 11 として 二人の貴族に 一年おきに支配させることにしたのだ:

  • new Loro of Wesiku (Lord Kalau Seran)
  • Lord of Fatu Aruin 12: Edmundus Teeseran (who was the son of a Chinese father and one of the old Liurai's sisters)

よく分からん。

Edmundus が称号 13をとった。 Antoni Teeseran は 1941年にスンバワ島で死んだ。

1945年に暫定自治評議会 (self-governing Provisional Council) がふたたび結成され、 ベル subdivision の行政をになった。 評議会のメンバーは:

  • Loro of Lakekun (Benedictus Leki)
  • new Loro of Bauho (Hendricus da Costa)
  • new Radja of Kewar (A. A. Bere-Tallo) (from the Bunaq state of Lamaknen)

戦後

東インドネシア国(オランダの傀儡)[^nii] の時代 に(1941年の)三分割が蒸し返されたが、 けっきょく捨てられた。

[^nii] Negara Indonesia Timoer. 1946年にオランダにより作られる。 (see Wikipedia [[!wikipedia State_of_East_Indonesia]] 1950年に解消される。

できたばかりのインドネシア共和国は、 ベルの政治を自治評議会にまかせた。 メンバーは三人の「伝統的首長」他に、 選挙によって四人が加わった。 ベルの半分の人口を占めるマラカからは、 一人しか選ばれなかった。 他の三人のメンバーはアタンブア (Atambua)おより その近傍から選ばれた。

権力の推移

1932年に Deputy Liurai の Asit Fatin が死んで 以来、 Malaka の伝統的首長である Benedictus Leki (Loro of Lakekun) が力をもってきた。 じっさい彼は Nai Bot (Great Lord) と 呼ばれるまでになった。

戦後、年をとってくると、 Antoni [sic] の弟である Louis Teeseran を 養子としてむかえ、 彼の deputy とした。 1955年には Benedictus は権力からしりぞき、 Louis Teeseran に権力をゆずった。 人々は Louis Teeseran を Malaka の Liurai と 呼ぶようになった。 Malaka の Liurai の称号は、 Louis Teeseran の FZS である Edmundus Teeseran が要求していたものであったのだが。

1958年、中央政府は「封建的領主」の力を奪う さらなる方策を打ち出した。 自治評議会は Bupati によって取って代わられた。

三つの領域は五つの kecamatan に再分割された。

It was not until 1962, however, that Malaka was actually dividied according to the law into two such distristcs: one to the west of the Benenai River,under Camat Edmundus Teeseran, [p. 256/7] and the other to the east, under a new Camat, who had just graduated from Cebu University in the Phillippines. Liurai Louis Teeseran was not completely excluced. He remained the traditional chief and the adviser on customary law for Malaka.

東マラカは大きすぎるので、 中央マラカと東マラカに分割された。

若いチャマットはそのまま東マラカに とどまり、 Louis Teeseran が 中央マラカのチャマットとなった。

中央マラカは Wehali、Fatu Aruin そして Manlea からなる。

1964年2月、 ベル県のブパティである A. A. Bere-Tallo (Lord of Lamaknen) は、 Louis Sanaka Teeseran (Liurai of Malaka) を 中央マラカのチャマットに任命した。

1964年5月、 Malaka の3つの郡をひとつの県にまとめる 運動が起きた。 Bupati は Liurai Teeseran になる予定であった。

これまでオランダ、日本、そしてブナ (Bunaq)に 従順だった Wehali Malaka が、 全体として、 はじめて積極的に動いたという意味で、 この運動は特筆すべき運動であった。

It was a sign that the south Tetun districts had finally awakended to the realities of administration and politics. It was also the unmistakable sign of the end of Wehali and its unique ideology of political authority.

さいごに

Wehali の最近50年間は政治的な変化と 改正の連続であった。

(p. 258)


  1. 【SN】これは、オランダ時代のことなのか、
  2. 【SN】新しい kecamatan の中にも
  3. 【SN】分からない。
  4. 【SN】Lord Tere Seran を指すのだろう
  5. "Lakekun", "Dirma", "Wewiku" は、
  6. 初出。
  7. 【SN】以後に書かれる「歴史」は、
  8. 【SN】「たしかに Anton は外に出て
  9. 【SN】どういう理屈か、
  10. 【SN】 Lamaknen を指している。
  11. 【SN】初出。Tasi Feto は北部だ。
  12. 【SN】 Liurai かしらん。
  13. 【SN】 "Liurai" かなぁ。