オイクシ国境付近の人々
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nakagawa [2015-04-13]このページは 一人一人に細分したほうがよいかましれない。 たとえば 2014-morita-life-as のように。
AS(1962年生、女)、オエクシから酒を運ぶ。
ポルトガル時代のオエクシ Oecusse 生まれ。2人の娘がいる。 毎週、パサール・トノに行き、酒を買ってきて、 インドネシア側で売っている。
「農民がお金を稼ぐのは大変。作物が多く取れて も、いったいどこで売る?誰が買う?」
8月から9月には、1回あたり100L(1ジェリゲン5L 入りを20本)を運ぶ。3月は、酒が少なく値段が上 がる時期で、1回に8から10本(40から50L。2トコ [1トコ=4ジェルゲン])を運ぶ。
現在、ドルの値段が上がっている。10ドル=125リ ブルピア。さらに上がって、10ドル=130リブにな るのでは、という。パサールでは、ルピアでの買 い物はできない。パサールで両替するか、こちら で両替してから行く。
サイノニ村からはいつも6人で一緒に行っている。 ナパンからはもっと大勢が行く。PLBを使う者もい るし、使わない者もいる。PLB を使ってポスを通っ てトノに行き、酒を買う。酒は裏(belakang)を通 して入れる。
週1で、パサール・トノが開かれるのに合わせて国 境を越える。パサールが開かれる火曜の朝に間に 合うように、月曜のうちに国境を越える。帰りは、 火曜のうちに帰ってくる。ポスは17時には通れな くなるので、いつもだいたいトノを15時に出て、 16時にポスを通るようにしている。
パサール・トノに行くだけでなく、 ディリ (Dili city) まで行く こともある。PLBでの入国には10日間の制限がある ので、1ヶ月間ディリに滞在するときは、 ジャラン・ティクス(jalan tikus) を使う。警戒が必要なのは、国境近くにい るときだけで、町や、ディリまで行ってしまえば、 心配は何もない。娘がオエクシ出身の夫と結婚し、 現在ディリのAir Mutiで暮らしている。2015年5月 に出産を予定しているので、手伝いにいくつもり。 オエクシから週に2回出る船に乗って、ディリに行 く。雨季は波が高い日もあり、フェリーでの移動は 大変。「小さな船なら沈んでしまうだろう。」
ディリでは物価が高い。何もかも高い。小さな子 どもでさえ、1ジュタのお金を持っている。1日生 活するのに50から100リブの費用がかかる。だから、 オエクシからディリへ行くフェリーの乗客は、わ ざわざオエクシから薪を運んで行く。
オエクシでは、cari uang tidak sulit(金を稼ぐ のは難しくない)。1週間に3、4回はパサールがあ る(火曜日トノ、水曜日オエヌン、土曜日オエク シ)。
PLB は kunjungi keluarga (家族の訪問)が本来 の目的なので、商品を持ち込むことも持ち出すこ とも許されていない。許可を得て商品をトラック で運び入れる者は、ポスですべての品の検査を受 ける。
かつてポルトガル時代も、 ジャラン・ティクス (jalan tikus) を 使っていた。「セクンダリナ」(「hansip(自警 団)のことだ」という。あるいは「Linmasみたい なものだ」と)に捕まったら、ディリに連れてい かれた。「セクンダリナは、要するにオラン・コ ミュニスのようなもので、イブたちがみんなで移 動しているのを見つけるとまとめて捕まえてしま う。」
BK(1980年生?、男)
トラックとベモを所有。かつて ジャラン・ティクス (jalan tikus) のビジネス。
2015年3月の聞き取りの多くは彼の仲介による。CU (Credit Union、マイクロクレジット)の地区の 世話役をしている。彼の家でメンバーの通帳を預 かっており、毎月の支払いを受け取って記録して いる。ンバーの経済状況はよく知っている。「あ たりの自動車のほとんどは、CUを使って買ったも の。バイクも、家も」とのこと。彼自身は現在、 黄色いトラック1台と、ミクロレットを2台所有し ている。トラックは、CUの資金で買った。ジャラ ン・ティクスを使った密輸をかつてやっていた。 その成果が、現在の3台の自動車だという(トラッ クはCUから借りた資金で買ったが、月々の支払い は密輸によっる稼ぎからできたということだろう)。 家も、CUから借りたお金で建てた。
ジャラン・ティクス(jalan tikus) を使った密貿易が現在のよう になる前は、たとえば子ども服をオエクシ (Oecusse) には故 ときには、小さな子供に2ダースも重ね着させて、 TLに売りに行った。最初のころは腕時計がよく売 れ、仕入れの3倍の値段で売れた。イブたちは下着 の中や、妊娠しているふりをして、おなかに布を 巻いて、たくさんの時計を隠して運んだ。
1999年から2003年ごろまでは、オエクシまで品物 を運ぶビジネスはなかった。なぜなら「オエクシ に人がいなかった。みんな逃げてきていたから。」 99年は、bebas membunu orang(人を好きに殺す) ような状況だった。最初に、PBB(国連)、インター フェットの軍人向けのビジネスが始まった。衣料 品、腕時計、香水、マルボロ、飲み物を運んで売っ た。腕時計と香水がよく売れた。IM(4-3)が最初 に始めたビジネスは、このときの腕時計売りだっ た。2004年ごろ、ユニセフやケアなどが、避難民 をオエクシに返す活動を始めた。60%が戻っただ ろうか。
現在は、村には自動車とバイクが増えた。このあ たりでは、ほとんどの者がもうバイクを持ってい るので、オジェック(バイクタクシーのこと)は、 客を探しても稼げない。よって客を乗せるよりも、 荷物を運ぶ。
3月15日日曜日の夜、 7時にスタートするというジャ ラン・ティクス(jalan tikus) を使った仕事の様子、にぎわいを 見るつもりだった。だが、「ケファ (Kefamenanu) からインテル が来ている」とのこと。コーディネーターから、 動かないようにと指示が出たので、hampir siang まで動きはないだろうと判断した。インテ ルが2人、BGの家から下のところに、さらに2人が 診療所の建物にバイクを隠して、「夜行バス」のF たちのボスを見張っている。先日は、1人(学校の 校長)が肥料を運ぼうとして捕まった。
オエクシと国境のこちら側との違いは、 「administrasi(行政)の違いがあるだけ。kulit, logal, pakaian, sama。rumah adat juga sama. cara berpikir sama,budaya sama.」別のと きにも、「sukunya satu, budaya satu, kawain-mawin lagi. rumah adat juga satu.」
IM(1966年生、女)
- 輸出業者、もっとも成功した人物。
6人キョウダイで、インドネシアで暮らしているの は彼女のみ。他の5人は東ティモールで、うち2人 はディリ(Dili city) で暮らしている。
国境のすぐそば、国境警備隊の詰所の目の前の土地 で、大きなキオスを営業している。2005年に最初の キオスを開き、2012年に国境のすぐそばの現在の土 地を建物とともに購入し、古い建物を一部壊して、 seperti toko といわれるような大きなキオスを開 いた。
成功を遂げた代表例として知られる(他に、IN、 OKの名前が挙がる)。ストラーダ、ハイラックス、 黄色のトラックの3台の自動車を所有している。正 式な許可を得て、「eksportir」輸出業者、輸出業 をやっている。1週間に1回から2回、スンバコ、リ ンソ、グラグラなどをオエクシに輸出している。 bak kayu の黄色のトラックを使う。オエクシには、 大きなトコとキオスの5軒の取引相手がいる。一方、 後ろ(ジャラン・ティクス(jalan tikus) のこと)を通して品物 を入れるのはほとんど毎日。ポスを通すと高い税 金がかかる、煙草や酒などを入れる。後ろを通し て入れる取引の相手は2人いる。運び手を5人雇い、 品物を入れる。
現在、オエクシには頻繁に行っている。1週間に1回。 商品は、ケファ(Kefamenanu) になければ アタンブア(Atambua) に、場合によっ てはクパン(Kupang) にも探しに行く。「オエクシは、インド ネシア時代の方がramaiだった。独立後は、最近に なってようやくbaru bangung. ビジネスをやって いる者だけはお金をもっているが、ふつうの人たち はお金がない。」「インドネシア時代には、現在の ようにNTTの発展にではなく、TLの発展に政府の力 がそそがれていた。電力も入り、ramaiだった。家々 も立派だった。ただし、それは町での話であって、 国境は違っていた。国境にはルマ・センはなかった。 コタと、バディ(?)での話。それが現在では違っ て、国境の近くの方が今ではkayaになっている。 kaya karena dekat batas.」「インドネシア時代の Napanに、センの家はまったくなかった。自動車も なかった。それが今では、一家に2台の車があった りする。karena tingal di batas.」オエクシの物 価は高い。ディリの方がもっと物価が高い。
生まれはこちらで、結婚してオエクシ(Oecusse)に移った。 1999年にオエクシから避難してきた。オエクシの ヌンベイに家と土地がある。夫は教員だった。以 前はrumah tangga だった。テヌンtenun織物を織っ て売るくらい。あとは、asrama putriをやってい た。テトゥン語(Tetun)は少しだけできる。オエクシに住 んでいたときに使っていたのは「バイケノ」(Vaikenu)だっ た。テトゥン語を使う機会は、結婚してディリか らやってきたような者と話すときだけだった。
1999年、オエクシからは何も持ってくることがで きず、ビジネスは「ゼロから始めた」。今とは全 然状況が違った。最初は国境の兵士たちに、腕時 計を隠して運んで売った。多いときには1日に400 本を運んだ。途中で兵士に見つかったら全部没収 される。「まるで、いつも妊娠しているような姿 だった。」布に包んで、daster(ゆったりしたワ ンピースの服)の中に隠して運んだ。「こういう 格好をするのがティモールのアダットなのだと答 えた。」上に着いたらそれを広げた。
ケファで30,000ルピアで買った腕時計が、10ドル、 15ドルで売れた。当時で1ドルは13リブだった。
ジョルバット1、2、3を相手にした(ジョルバット? 初期に派遣された軍隊のことだろう)。その後、 韓国軍に代わった。韓国の軍人5名が川に流されて 死んだ話は、よく聞かれる。カリ・ノエルエカッ トを車で渡ろうとして、車ごと流された。彼らは パサールへ向かうところだった。哀悼のために毎 年飛行機が来て上空から花を撒いていたが、今年 は来ない。
「キャプテン・イスマイル」が、自分から買って いた。しばらくして腕時計が売れなくなると、次 に売れたのは香水だった。キャプテンがママに、 香水を持ってくるようにと言った。英語はできな いが、片言と身振りでやりとりをした(pakai isyarat saja)。「ミシス、IM、カムカム」、 「トゥデイ、ノー、カム」。腕時計が下火になる と、香水。それからkofer roda(スーツケースだ ろう)、衣料品などが売れた。2005年にキオスを 開いて、飲み物と食べ物を売った。コーヒーは1杯 で2,500ルピア。1日で180,000ルピアの売り上げが あった。ミーゴレンは5,000ルピア。
「神に感謝している。ちょうど国境があるこの場 所で暮らすことになった。神に対して何かお返し をすることなんてできない。ただ感謝をするばか り。」商売はやりやすくなったが、以前は裏を通 すのも大変だった。
2010年には破産した。ドルの価値が、12,500ルピ アから7,500ルピアに一気に下落したために、 58,000,000ルピアの借金ができてしまった。夫に 頼んで、クレジットで借りてまず借金を返そうと した。しかし夫が反対するのでできなかった。マ レーシアから帰ってきた若い子たちを見て、自分 もマレーシアに出稼ぎに行こうとすら考えた。ケ ファの中国人に頼み込んで、信用してもらって商 品を後払いで仕入れた。58,000,000ルピアを2ヶ月 で返し終えることができた。
2012年、現在の土地と家を、自分のお金で購入し た。夫は反対したが、国境のすぐそばで、ポスの すぐ前の絶好の場所であり、自分で決めて購入し た。トラックを使って輸出を始めた。当初は自分 でトラックを所有していなかったが、他人のトラッ クを借りると、1日に1,000,000ルピア、3日で 3,000,000ルピアを払わなければならない。それで いったい、利益はいくらになるだろう。部屋に鍵 をかけて、棚の中に貯金したお金がいったいいく らになっているのか、数えてみた。300,000,000ル ピアになっていた。自分でトラックを買おうと考 えた。ケファの中国人、ボス・アイミーに尋ねて みた。「ボス、トラックを買いたいのだけれど」 「M、いくらあるんだい?」「300ジュタならある」 トラックは360ジュタだった。300ジュタを払って、 60ジュタは分割で払っていった。3ヶ月で払い終え た。2012年の2月20日には、トラックにつづいて2 台目になるハイラックス(ピックアップの自動車) を買った。ハイラックスを156,000,000ルピアで買っ たときにも、夫には反対された。夫は知らないが、 もう1台、ストラダを買っている。ケファに置いて あるので、夫はまだ知らない。夫は、ハイラック スが1台あればもう十分だという。でも、roda berputar 車輪は回し続けていかなければならな い。一生懸命に働いて、purar balek、人をだまし てはいけない。裕福になると妬まれるようになる ものだけど、神様がいるなら大丈夫。ケファで両 替をしてルピアを受け取ったあとで、10,000,000 ルピアを余計に受けとっていたことに気づいた。 私はこわくて、次の日に慌ててボスに返しにいっ た。ボスは、「言わなくてもいいのに!」と言っ た。正直でいないといけない。
AL(1976年生、男)
- オジェック(つまり、ジャラン・ティクスの運び手)
FL(1985年生、男)
- 夜行バス(荷車を使った運び手)
MK(男)
- 小規模だが自分の資金で燃料を運んでいる。
- オジェックは雇わずに自分で運んでいる。
AN(女)
- オジェックたちを雇って燃料を入れている。
RT(1978年生、女)
- オジェックや夜行バスを雇って燃料を入れている。
FE(1974年生、女)
- オジェックや夜行バスを雇って燃料を入れている。
GB(1958年生、男)
- オジェックや夜行バスを雇って燃料その他の商品を入れている。
JB(1973年生、男)
- パンテマカッサル出身、1999年に移住。燃料を入れている。
DS(1982年生、男)
- ブギスのボスが所有する自動車を使って、ドライバーをしている。
RN(1980年生、男)
- キオスと両替業