ベボヌックから見た「危機」
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インタビュー
2006 年のコンフリクト
以下、中村シスターによる Crisis-2006 の 描写である。
「2006 年 4 月末。イースターの後、寮生たちは実 家に帰る。家では「近いうちに Dili がたいへんな ことになるから」と言っていて、不安になっていた。 二人だけ残して実家に帰すと、その週の金曜日から 事態が一変。
デリカを使って避難所へ運ぶ。避難所はドンボスコ Dom Bosco のもの(どこにあったのかは不明) が数千人を受け入れ、空港にも 5,000 人くらいが 逃げていた。人々や家財道具を乗せて、Metinaro のキャンプへ逃れた。少なくとも一年間はそこで (逃げた人々は)暮らすことになった。残された家 財道具は預かることにした。」
「Tutti 1 もひどかったため、川 沿いの道を歩いてメインの道路に出ていた。オース トラリア大使館近くのファトゥハダ 2 もコンフリ クトが激しい地区だった。」
「ここはシスターが住んでいると分かっているから、 おそうことはなかった。ここでもトタンが盗まれた り、治安が悪化。UN のポリスに出動要請したが、 45 分かかるとか言われ、来てもテトゥン語 ( Tetun) が分か らなく、聞いたフリをしているだけ。信用できなかっ た。
ただ、運転していると何度か投石に合うことが二度 三度あった。いつも Bebonuk では見かけない人が たくさん、西部人のエリアにいた。出産間近の人を デリカで運んだこともある。でも、西部と東部の対 立するところを避けて、安全に運び出す必要があっ た。」
中村さんの解釈
(East-West opposition について) 中村さんは「作られた対立」という。政治家同士の 対立が発端となって、かれらの間で決着がつけば、 コンフリクトは鎮静化したからだ。しかし、東西の 出身者同士に潜在的な対立があったことは否定しな い。「2006 年に対立が起こったと言うよりは怨念 や家族の対立」とも中村さんは言っていた。