教育の歴史
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Rebuilding Education の第1章 [@beck-context] に簡単な歴史がある。 まとめてみよう。 これをもって、このページ (教育)の基本枠組としたい。
ポルトガル時代
ポルトガル時代 ( Hist-Port )を通じて、 政府によって教育は無視されてきた。 かわって教育を受けもったのが Catholic Church であった。 しかし400年の植民地時代を通じて ミッションスクールに通った人数は3000人にすぎなかったという。
- ポルトガル時代:400年で3000人
- 文盲率は90%を越える
(中川) Colegio de Soibada が Tetun 普及に大きな役割を果していると フォックス は言う [@fox-tracing] 。 詳細は分からない。
マヌファヒ反乱後
1912年の Manufahi Revolt の後、 ポルトガルは現地民の懐柔策を取る。 支配者の子女を教育し、 ヨーロッパ化して、カトリックで、 そしてポルトガル語をしゃべる少数のエリートを 作った。 (この部分は Beck ではない)
Millo and Barnette 2003:「ポルトガル時代の 教育は、基本的に従順なエリートを作るためだ」と 宣言する。
1960年代になってやっと ポルトガルは東ティモールの社会改革に 乗り出した。 カトリック Catholic 教会とくんで、 ティモール島の国民 1 すべてが ポルトガル語を喋れるようにするのが目的だった。 [@hajek-survival] p. 188
フルの市民権を認められた
1953年から1974年の間に 小学校に通う人数が 8000 から 95,000 に増えたという 報告もある。 [@hajek-survival] p. 189 けっきょくはうまくいかなかった。
インドネシア時代
([@beck-context] p. 4)
インドネシア統治下の25年間に 教育は圧倒的に発展した。 下の表を見よ。
[[!table data=""" Education | 1975 | 1999 Number of primary schools | 47 | 788 Number of children attending primary school | 10,500 | 167,181 Number of junior secondary schools | 2 | 114 Number of children attending secondary schools | 315 | 32,197 Number of senior secondary schools | 0 | 54| Number attending senior secondary schools| 0| 18,973 """]]
(Source: United Nations, 2000)
インドネシア政府が試みたのは、 教育を通じての「インドネシア化」であり、 パンチャシラ教育などが積極的に行なわれた。
([@beck-context] p. 5) 教員のトレーニングは充分ではなく、 それゆえ教育の質はたいへんに低かった。 また教員の給料はわるく、 多くの教員が副業をもっていた。
遷移の時
([@beck-context] p. 5) 1999年の referendum の前に CNRT がメルボルンに集結し、 次のような決議をした。
- Kindergarten から Tetun を導入
- 小学校1年から Portuguese を導入
referendum の後の混乱で 多くの教育施設が(世銀の 見積りでは95%とされる)破壊された。
(supit-steps によれば 80%という。)
再生の努力によって、 2001年には小学校が 756
- 2001年
- 小学校 756
- 中高 150
supit-steps によれば 2002年までに:
- 240,000 の生徒が小学校・中学校に在籍した
- 850 の機能している学校にたいして
- 100万の教科書が配布された
- この頃、ティモールの人たちはやっと↩